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聖歌

   1  十二月二十二日

 夜の色は一層濃くなって、空気は一段と澄む季節になっていた。高い天(そら)で冷たい色をした星が瞬く。
 冬の夜の空気をたっぷり吸って重くなったかのような気分を抱え、長谷部は自らの主と正対していた。審神者は瞑目したままで小さなナイフを弄んでいる。すらりと空を切り裂く音が時折響くが、他に音はなかった。
 怪我でもされたら、などと無粋なことを言う気は、長谷部には毫もなかった。思索を妨げられることを審神者は嫌っていた。何よりそれは、自らの領分を侵されることを意味するからだ。
 ともすれば忘れそうになるが、自分と主との関係は人間同士のそれではないのだ、と長谷部は胸の内で呟いた。何かをもたらすのは審神者のみでなければならず、長谷部は、その血も肉も全て、その為の道具でしかない。
 付喪神と称される存在ではあるが、その本質は何処までも道具だった。祀られるだけでは意味がなく、主によって遣われる存在でなければ、長谷部は己を認められなかった。
 それを時に審神者は「誤った教育の結果」だと評した。「教育」を施した自身こそが罪深い人間であると、奇妙な表情で吐露される度、長谷部は何と返すべきか分からなくなった。元より自分が在ったのか、それともそれは審神者により作られた自分なのかなど判るべくもない。
 文机に掌中のナイフを置き、審神者が目を開けた。
「長谷部君」
「はい」
 いつもと変わらぬ呼びかけに、長谷部もいつも通りに返す。
「一つ、約束をしたいのだけれど」
「はい、何でしょうか」
 審神者は少し口ごもった。引き伸ばされきれない笑みを浮かべて再びナイフを手に取る。
「つまり……明日は何もしないと約束するから、今夜は私の好きにさせてほしい」
 長谷部は些か拍子抜けして目を瞬(しばた)いた。今更そのような約束などするまでもなく、審神者の所有物である彼は毎夜のようにその身を委ねている。
「俺は元より異論などありません。主の御随意に」
 忠臣らしい態度で答えた近侍へ審神者は苦笑して見せ、咳払いして言った。
「君はもう忘れてしまったかもしれないが、明日は君と静かに、楽しく過ごす日にしたいのだけどね」
 その言葉を聞き、長谷部は漸く一年前のことを思い出した。降り始めた雪の中、「君に楽しいクリスマスの思い出を残したい」と告げられたことを、長谷部も勿論覚えていた。
「いえ、覚えています――主が昨年のクリスマスに、俺に下さったものは全て」
「そう」
 刃に部屋の灯りが反射して長谷部を見た。鈍い光が、返事は? と促している。
「俺にその約束を断る理由などありません。ですが、一つだけお尋ねしても宜しいですか」
「うん」
 審神者は鷹揚に頷いた。
「その……明日は俺と、二人で夜を過ごしてくださるということですか」
「ああ、約束する。昼はその準備の為に一緒に出てくれると尚嬉しい」
「それは、勿論」
 にっこりと笑い、審神者が立ち上がった。話はこれで終わりだった。これからは長谷部が道具として振るわれる時間だった。

 長谷部を布団に横たわらせると、審神者はカソックを脱がせ、スラックスも足首まで下ろしてしまった。晒された白い脚が小さく震え、審神者の手が其処を撫でると肌が粟立った。
 審神者の口元には酷薄な笑みが浮かんでいたが、へし切を抜刀し、その刃を長谷部の脚へ添える段になると、表情からは余裕が拭い去られた。
 手が少しだけ進み、鼻につく鉄の臭いと共に皮膚に赤い血の玉が浮く。もう一押しされると刃は更に奥へ進み、体液と脂肪に滑りそうになる感触があった。
「……ぐっ、う」
 長谷部はまだ苦鳴を堪えていたが、じりじりと肌を灼く刃の熱が突如荒々しい獣の牙のそれになったので、思わず背を反らして叫んだ。
「ぎっ……ぁぐ、あっ……」
 肉が引き千切られる音と咀嚼音に思わず耳を塞ぎたくなる。手の血管が浮く程にシーツを握り締めて何とか目を遣ると、審神者は長谷部の脚にそのまま齧り付いていた。へし切で裂いた傷口を無理矢理に抉り広げ、其処から肉を毟り取っては噛み砕いている。
 嚥下の度に上下する喉を赤黒い血が伝う光景に、長谷部は目眩がするのを感じた。しかしそれは陶酔にも近い感情だった。
 身の内で熱く渦を巻くその衝動のまま、長谷部は口を開いた。
「あ、るじ」
 長谷部の声に審神者は顔を上げた。知性など欠片ももたない獣のように口と顎を血で真っ赤に染めて、しかし両手では神への供物を捧げ持つように長谷部の生白い脚を支えている。
「我慢できなかった」
 それだけを返し、審神者は長谷部の脚を布団の上へゆっくりと下ろした。血の滴が顎から滴り落ちては布団に滲んでいる。口元を袖口で乱暴に拭い、審神者は置いていたへし切を再度手に取った。
 喰い荒らされた少し上、太股の中ほどを圧し切って左脚を断ち落とす。長谷部が一際大きい呻き声を上げるのに構わず更にその上にも刃を入れ、五センチ程の厚みがある肉を切り取った。
 用意してあった皿に載せられた輪切りの肉は、桃色の断面を血塗れにして審神者と共に哄笑しているように見えた。濁った音につられて涙が零れそうになるのを堪(こら)え、長谷部は深く息を吐いた。
 審神者は動かなくなった肉塊――長谷部の左脚の下腿から同じように肉を切り取って、先に皿に載せていた肉片の上に重ねた。不恰好な鏡餅のような物体が出来上がる。
 大腿の動脈から、心臓の拍動に合わせてリズミカルに血を溢れさせている長谷部へ審神者は向き直り、皿を掲げて見せた。
「痛いかい」
 昏い目には妖しい光が宿っている。長谷部は「いいえ」と答えるのが精一杯だった。
「そう」
 何故嘘が口を衝いて出たのか分からなかった。審神者は喉を鳴らすと振り被り、長谷部の脇腹を刺し貫いた。血が泥のように跳ねる。穿たれた穴へ無造作に手を挿し込んで腸を引き摺り出すと、遅れて長谷部が血泡混じりの咳をした。
 細い神経や血管が力任せに千切られる厭な音が響く中、長谷部は何も考えないようにしていた。意識すると、壊された部分が不快な熱を以て訴えかけ始めるのだった。確かに酷く痛みはした――痛いなどという言葉では到底足りないくらいに――が、それすら審神者が手ずからもたらしたものなのだから、彼にとっては神託に等しかった。たとえ、錆びた泥水の味がしようとも。
 審神者は暴いた小腸をナイフで切り分け、先程の皿の上に何やら飾り付けるように盛り始めた。長谷部からは赤銅に濡れ、黄色い脂肪の零れた布団と審神者の横顔しか見えない。早く、荒くなる呼吸を抑えて大人しく待っていると、これも鮮血に塗れた五指が眼前に伸びてきた。
 眼球の表面を指でなぞられ、長谷部は反射的に目を瞑る。何かを確かめるような指の動きは何度経験しても慣れなかった。瞳に自分の血を塗り込められ、長谷部の視界は緋く染まった。
「君には何が見えている?」
「主、です」
 掠れた声で答える長谷部に審神者は笑った。
「私は何に見える?」
 眼を押し潰されそうになる恐怖に溺れかけ、それでも長谷部は答えた。
「――人間です」
 飲み込んだ答えも見透かすように審神者は冷笑し、指を長谷部の眼窩に沈めた。血に沈んだ気管が泡を立て、長谷部は声にならない悲鳴で部屋を満たした。
 激痛は退くどころか指数関数的に増していき、脳裏で火花が弾け飛んだ。絶叫と共に涎を撒き散らしながら、長谷部は右目から血管と視神経が引き出されて伸び、そして断ち切られるのを見た。
 頬に落ちた神経がまた痛みを拾い、長谷部は痙攣した。ひゅうひゅうとか細い音が鳴るのは自分の喉からだと気付くのにも時間を要した。胸が大きく上下する向こう、審神者は粘着質な水音を立てていたが、漸く振り返ると幼子めいて無邪気に笑った。
「完成した」
 それは二段に重ねた脚の肉に腸を巻き付けて飾り、血液をふんだんに回し掛けた上に眼球を丁寧に飾った、グロテスクな物体だった。審神者の表情と相俟って幼児が作った粘土細工のようで、其処には悪意が微塵も込められていないという事実も共通していた。
「君でケーキを作りたかった」
 訊かれてもいないのに審神者は語り、一度床に皿を置くと執務室へ姿を消した。程なくしてフォークと黒い箱――〝ラジオ〟と呼んでいた――を手に戻って来ると、スイッチを弄り、密やかな合唱の声が流れ出した。
 ナイフとフォークを器用に操り、審神者はケーキの一切れを切り出した。息も絶え絶えに自分をじっと見つめている長谷部に微笑みかけ、フォークを口に運ぶ。気味の悪い咀嚼音が響いた。
 ラジオからは聖歌隊の歌うクリスマス・キャロルがしめやかに流れていた。

   2  十二月二十三日

 

 清冽な冬の空気が肌を刺す。長谷部は思わず身震いし、その拍子に山吹色のマフラーが揺れた。
「君もコートが要るかな」
「いえ、俺は平気です」
 黒い外套に身を包んだ審神者は気遣うような視線を向けた。紫紺のカソックを纏い、淡い山吹色のマフラーを首に巻く長谷部とは対照的に、審神者は全身を黒に包んでいる。祝祭の色――お決まりの赤と緑、それに控えめに輝く金や銀――の中では、長谷部よりも寧ろ審神者の方が何処か浮いて見えた。
 白い息を吐き、審神者は手に提げた紙袋を確認した。
「ワインと、君への贈り物は買った。ケーキは長谷部君が持っている」
「はい」
 長谷部が大事そうに抱えている赤い箱には、天から降り来る雪の結晶や樅の木のイラストが散りばめられている。天辺の透明なフィルムから覗くのは、グラサージュがつやつやと光るチョコレートケーキだった。流すように振りかけられた金粉は、光に舞う氷の結晶を思い起こさせる。
「他に用がなければそろそろ戻ろうか。君の身体に障るといけない」
 踵を返そうとした審神者の横で、長谷部は少し俯いて言葉を探していた。そわそわと落ち着かない様子の長谷部に審神者が呼びかけると、弾かれたように顔を上げた。煤色の髪が冷えた空気に揺れる。
「あの、主」
「まだ何か?」
「あの……俺、先程の店に、忘れ物を」
「忘れ物? 取りに行こうか」
「いえ……いいえ」
 歯切れが悪く、必死に言葉を探している様子の長谷部に審神者は訝しんだ。
「そんなに大事な物なら、尚更二人で向かった方が良いだろう」
「いえ、俺が走って行ってきますから、主は此処で待っていてくださいますか」
「ああ、構わないが」
 確かにその方が速い、と審神者は得心した。長谷部からケーキの箱を慎重に受け取り、身の丈を優に超える高さを誇っているクリスマスツリーの下に居所を定めた。
「申し訳ありません、すぐに戻って参りますので」
「そう急がずとも構わないよ」
 ツリーの影のように佇む審神者は、其処で一つ思い出したように言葉を切り、
「長谷部君」
 と呼んだ。
「はい」
「もし誰か知らない人間に飴をあげると声を掛けられても、付いていってはいけないよ」
「はい……? 主、俺は短刀や脇差の連中ではありませんよ」
「……冗談だ、引き止めてすまなかった。行っておいで」
 悪戯っぽく笑って手を振る審神者に長谷部は些か憮然とした表情をしたが、走り去り、ほんの数分で戻って来た時には、
「誰にも声を掛けられませんでしたよ」
と胸を張って報告したので、審神者は思わず吹き出してしまった。

 夜は昨日と同じ色をしていた。長谷部は寒色の星々が好きだった。
 息を吐くと白い靄がすぐに拡散して消え、空に溶けゆくようだった。
 執務室の前で主、と声を掛けるとすぐに返事が返ってきた。昼と変わらない笑顔で審神者が其処に座っているというだけで長谷部は嬉しくなり、胸が甘く痛むのを押し隠した。
「寒くはないかい」
「はい」
 座るよう促され、長谷部は自分の座布団に腰を下ろした。照明は柔らかい橙色の光を落としている。
 審神者が文机の脇に置いていた紙袋を手に取り、中から珈琲色の包装紙で包まれた箱を取り出した。
「まず、これを君に」
「ありがとうございます、主」
 頭を下げて受け取った長谷部がシャンパンゴールドのリボンを引っ張って解き、包装紙を丁寧に剥がす。現れた白い箱を開けると、ティーカップとソーサーが二客収められていた。
 大理石のように滑(すべ)らかな手触りと色をしたカップとソーサーには、黄金(きん)と赤みがかった栗色が品良く配されており、金色には繊細な浮彫が施されていた。街で目にした、聖夜を象徴する色を想起させるティーカップを、長谷部は一目で気に入った。
「とても素敵です、主」
「気に入ってくれたようで良かった」
「はい、ありがとうございます」
 誰かが部屋に訪ねてきた時に使うと良い、勿論一人の時でも、と審神者が話している。主は、という言葉は飲み込んだ。
「そうします、主」
 主は、一緒に使ってくださらないのですか。それは俺には過ぎた願いだ、と長谷部は自戒した。これ以上何かを与えられることも、自分が主にとって何かをもたらすことができるのではと傲ることも、分不相応だ、と。
 上機嫌の審神者に、長谷部は一転して蚊の鳴くような声で呼びかけた。
「ん?」
 急いでカソックの内側から包みを取り出し、見えない隙間へ滑り込ませるように差し出して、長谷部は俯いた。
「差し出がましいようですが、俺からも、主に」
 審神者は目を丸くして、それから自分の左右を振り返った。
「私に?」
「はい」
 破顔して、審神者は樅の葉のような深い緑色の袋を開けた。中からは掌に収まるくらいの平たい缶が滑り出た。
 泡立てられた優しいピンク色のクリームに、見慣れた蜜柑色の花弁が散りばめられた意匠のラベル。裏返すと、小さな文字で「金木犀の香り」と書かれていた。
「手に、塗るものだそうです」
「ハンドバーム?」
 何でまた、と問いたげな瞳を直視することに耐えられず、長谷部は目を伏せて慌てて付け足した。
「人間は――主は、手入れでは治りません。……ですから、どうか御身体を労ってください」
 ちくちくと針で刺されたように痛む胸も、どうして痛むのか分からなかった。それに、
「ありがとう、長谷部君。大切にするよ」
と審神者が言った時、その痛みがより強いものに変わった理由も、長谷部は知る由もなかった。口にすれば、全て無為になってしまうことだけは薄々察していた。
「ああ、あの時買いに行ってくれたのか……本当に嬉しい」
 審神者が立ち上がりながら生娘のように笑った顔を、長谷部は見ていなかった。零れそうになる涙を抑えるのに必死だった。
「長谷部君、ワインを温めようか」
 グリューワインの瓶を手に、審神者は小鍋と小さなコンロの用意をしていた。沸騰させないように注意深く温められているワインから、スパイスやアルコールの香りが立ち昇る。
 瓶のラベルに描かれた冬の窓の風景から、長谷部はキャロルが聞こえてくるような気がした。そうではなく、審神者が小鍋を傾けながら鼻唄を歌っているのだった。
 昨夜ラジオから聞いたその歌を、長谷部は聞こえるか聞こえないかの声で口ずさんだ。

 ――主のみつかいが降り来りて、
   栄光が辺りを照らす

 

 二人分のマグカップにワインを注いだ審神者も、カップを手にじっと佇んで瓶のラベルを、その中に降る雪を見つめていた。

 

 ――〝恐れるな〟とみつかいは言った
 

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