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オールグリーン

 突然何の前触れもなくシステムがダウンして、審神者は真っ先に端末の故障を疑った。隣で事務仕事を手伝っていた長谷部に確かめると、彼の端末でも任務の達成状況や戦績の確認ができなくなっていた。

 管狐を呼び出そうとしたが、応答はいつまで経っても来なかった。机の片隅で半ば置物と化していた審神者用の厚いマニュアルを開き、後ろの方を捲ってエラーの原因を探索する。忙しなく動いていた手と瞳は、ある一点で凍りついた。

「主?」

 傍らの近侍が声を掛けると、審神者は努めてゆっくりとマニュアルを机に伏せ、

「もう一度だけ確認しよう」

 と言った。出陣、遠征、演練、任務達成の報告、戦績の確認――どのコマンドも実行されず、ただ無音で黒い画面が表示されるだけだった。震える手で、審神者は端末を取り落とした。

 無言で立ち上がり、執務室を出て廊下を早足に歩く審神者を長谷部は小走りで追った。靴を履き終わるのもそこそこに転げ出るように玄関扉を抜け、本丸の正面を背負う門へ向かう。初期状態(デフォルト)ではそれぞれの本丸へ割り当てられた仮想空間上の小さな町――万屋や、それ以外の家屋が立ち並んでいる――に繋がっている筈の其処は、しかしぼんやりと発光する靄のようなものが立ち込めているだけで、左右何処まで見渡しても他には何も見えなかった。あちらこちらで光の粒子がきらきらと弾けては舞っている。

 愕然と目を見開いていた審神者は一言、「やられた」とだけ呟き、倒れるように門扉へ寄りかかった。何も事情を知らない長谷部が心配そうに自分を見ているのに気付くと二言三言呟き、よろめきながら身を離して執務室へと足を向けた。

 障子戸を開け、投げ出された厚い冊子とひっくり返った端末がそのままになっているのを見て、審神者は漸く自分を客観視できるような気がした。正確には、自分が置かれた状況を、だった。事態は一刻を争うが、初手で悪手を打てば全てが最悪の方向へと向かう。長谷部が困惑しながらも部屋へ戻って来ていることを確かめ、後ろ手に戸を閉めた。

 乾ききっている唇を湿らせようとしても上手くいかなかった。もう一度だけ端末のメインメニューを展開し、システムが黙りこくっているままなのを確認して、審神者は肚を括った。

「長谷部君」

「はい」

「落ち着いて聞いてほしい」

 揺れる藤色の水面には、蒼白な顔をした人間の顔が映っていた。長谷部が一度だけ瞬きをすると、泣き笑いのような奇妙な表情は覚悟だけに塗り潰されていた。

 

「……何か、手段はないのですか」

「ない」

 全てを聞かされ、理解した長谷部は動揺した。一縷の望みもないこの絶望的な状況下で、何故自分の主が落ち着き払っていられるのかは理解できなかった。散々政府と国の為に身を賭して戦ってきた結果がこれか、と瞋恚(しんい)が身を灼き、諦念を抱いているような審神者の様子に憤りを覚えすらした。余りにも惨い結末だ。

 それでも何とか近侍としての体面を保とうと、長谷部は努めて冷静に言った。

「他の連中への説明は、俺から致しましょうか」

「いや、……私がする。それがせめてもの誠意だ」

 今日まで自らに付き従い、戦場に身を置いてくれた恩に報いなければいけない。――そう告げた審神者へ反論したい気持ちで長谷部は一杯だった。

 頻繁に入手できる藤四郎の短刀から稀少な天下五剣の太刀まで、付けられたその価値など関係なく、刀剣男士はあくまで審神者の所有物だ。だから審神者その人が彼等に対し罪悪感を覚え、気に病む必要などない。少なくとも長谷部は、審神者の懐刀は、そう考えていたが、その言に審神者が納得する筈もなかった。だからこそ、真実を押し隠しておく方が遥かに楽なのに、自身の口から全てを語ろうとしているのだ。

 審神者は別に高尚な志を抱いている訳ではなかった。刀剣男士を道具以下にも人間以上にも扱っていなかったのに、今更浸るような感傷は持ち合わせていない。ただ自分が逆の立場に在れば、何も知らないうちに死ぬ、或いは朽ち果ててしまうことだけは嫌だと思っていただけだ。

 庭の土は泥濘んでいたが、空へ向かって伸ばされた木々の枝には茶色がかった蘇芳色の蕾が幾つも付いている。まだ綻びかけてもいないそれを見て、今年の桜雨は見られそうにない、と審神者が嘆息した。

 

 夕食の前、銘々集まってくるままに声を掛けておいたので、食器が片付けられた後、食事部屋には本丸の刀剣男士が一人残らず集まっていた。百を超す瞳が自分を見つめていても、審神者はたじろがなかった。既に全てを知っている長谷部を気遣ってか、

「君も皆と同じ側に座って構わないよ」

 と言う余裕すらあった。

 長谷部は情けなく震える手を背後に隠し、

「俺も主と同じ側に立ちます」

 ときっぱり言った。確かに責任の一端が、否もしかすると大部分が自分にあるのかもしれないと考えると頭が痺れて立っていることすら辛くなったが、だからこそ審神者の隣で仕えているべきだと覚悟を決めた。

 審神者は予め、ただ事実だけを簡潔に告げ、その後に一人ずつと話をする、と長谷部へ告げていた。何度も同じ問いに答えることになり時間を浪費するだけです、と長谷部は反対したが、審神者の意志は堅かった。自分にできることは、彼等の長きに渡る献身へ最後に報いるにはこれしかない、と断固として譲ろうとしなかった。

 それで結局、長谷部が折れた。残された時間は分かっているのですかとだけ口にしたが、返事は「分からない」だった。

 審神者が淡々と説明し、口を閉じると、室内は一瞬だけ水を打ったように静まり返った。喧々囂々(けんけんごうごう)の騒ぎの中、審神者はただ荒れ狂う嵐のような言葉の奔流にじっと耳を澄ませ、やがて一人、また一人と口を噤み再び静寂が戻って来ると、

「誰からにする」

 とだけ言った。

 

 最初にやって来たのは燭台切光忠と大倶利伽羅、鶴丸国永の三人だった。燭台切は普段通りの綺麗な微笑みを浮かべているし大倶利伽羅は仏頂面、鶴丸は悪戯の結果を見届ける時の表情だった。

「僕達ぐらいは冷静でいないとね」

 燭台切は困ったように眉を下げて言った。

「何か手段はないのか?」

 鶴丸が尋ね、「ない」と返されると肩を竦めた。

「ま、仕方ないな。これも運命ってやつだ。な、伽羅坊」

 大倶利伽羅は鼻を鳴らしただけでそっぽを向いた。残る二人は口々に「君は悪くない」という旨の審神者への気遣いを向け、それ以上は何も訊かなかった。

「一組目からこの調子では、少し精神的に参ってしまいそうだ」

 そう零した審神者へ、長谷部は何も言えなかった。ただ政府を、国を、歴史修正主義者を、審神者でない、日々を安穏と生きている人間を、そして無力な自分を憎悪した。

 

 左文字の三兄弟や三条の面々はそれほど何も感じていないようだった。髭切と膝丸、数珠丸恒次も、特に恨み言を口にするでもなくあっさりしたものだった。審神者は深々と頭を下げ、詫びることしかできなかった。

 それでも特に三日月宗近などは飄々としたもので、

「何、こうして縁が出来たのだから、いずれまた何処かで逢うやもしれぬ」

 と言い残した。

 反対に歌仙兼定や加州清光、浦島虎徹などは憤懣やるかたない様子で、彼等を宥めるのに大和守安定や長曽祢虎徹は手を焼いた。「仕方ない」と口走った審神者へ加州は益々興奮し、

「仕方ないって何だよ!」

 と詰め寄ったところで大和守と長谷部の二人が強引に引き剥がした。

「浦島、やめなさい」

 静かに叱りつけ、蜂須賀虎徹は言った。

「責任の所在を調べている訳じゃないんだろう?」

「勿論。君達には一ミリだって非はない。責任があるとすれば私だけだ」

「主の目も鍛えられた、と言いたかったけれど、その様子ではまだまだだったようだ」

 長曽祢と二人、彼は笑った。

 

 半数の男士と話を終えたところで時計を見ると、夜はとうに更けていた。

「長谷部君、君は休んでも」

「俺は、主の御傍に居ります」

「ありがとう」

 長谷部を素直に受け入れた審神者の内心に思いを馳せると、長谷部は胃が、全ての臓腑が捩じ切れる思いだった。――それでもやらねばならなかった。刻限はこうしている間にも迫り続けている。

 粟田口の刀剣男士全員が入ると、執務室は途端に狭苦しくなった。五虎退や秋田藤四郎などは特にぴったりと一期一振へ寄り添って、離れようとしない。道理を弁えたように振舞っている薬研藤四郎や平野藤四郎の姿が、審神者には痛ましかった。

 ――本当は今すぐにでも泣き叫び、喚き散らしたいんじゃないのか。そう口にしそうにすらなった。逃げる先など何処にもないのに、審神者は逃げ出したくて堪らなくなった。

「主、一つ御願いが」

 五虎退の頭を撫でながら一期一振が言い、審神者は私に叶えられることなら、と続きを促した。

「私は弟達の後にしていただきたい。一人たりとも置いて行きたくはないのです」

「ああ、構わない。約束する」

 幾つも上がるいち兄、という声を宥め、彼は付け加えた。

「篭城は、無意味なのでしょうな」

「ああ」

 審神者はあっさりと認めた。

「自由になる資源は今手元にある分に限られる上、救援は絶対に望めない。消耗し、苦しみ抜いて死ぬだけだ」

 死ぬ、という言葉に前田藤四郎や乱藤四郎が身を強張らせた。皆一様に兄と慕う刀の顔を見上げ、続く言葉を待っている。

「ええ、分かっておりました。篭城などしたところで皆飢えて惨めに死ぬだけです。地獄など生温いあの光景を、弟達に味わわせたくはありません」

「……すまない。粟田口には、世話になった」

 一期一振は黙って頭を下げ、さあ行くよ、と弟達を立ち上がらせた。一人ずつ部屋を出る前と出た後に一礼し、最後に一期一振が審神者の目を見据えた。

「主、くれぐれも、宜しく御願い申し上げる」

「約束する」

 十数人の男士が退室し、部屋は一気にがらんとして見えた。審神者は目元を押さえ、深く長く息を吐いた。

「主、休憩されますか」

「いや、……時間が惜しい。続ける」

「……承知しました」

 長谷部が部屋を出ると、本丸のどの部屋にも煌々と灯りが点いているのが見えた。星を求めて夜空を見上げたが、空は曇っていて、鈍色の厚い雲が星を覆い隠していた。

 雨の臭気が漂っていたが、それは何故か戦場で嗅ぐ死臭に酷く似通っていた。流れ星に祈るような感傷を持ち合わせていないことを思い出し、長谷部は自嘲めいて笑った。

 

「納得行かねえ!」

「兼さん、落ち着いて。主さん、兼さんに悪気はないんです。……ただ、事態が急すぎて、その、飲み込めていないだけで……」

 怒声を上げる和泉守兼定へ、堀川国広が言い添えた。「国広、お前だってこんなの納得できないだろ?!」と吠える和泉守へ、審神者は苦笑した。

「相変わらず、君達は良いコンビだ」

「まあ、そりゃあ当然だな……って、そうじゃないだろ!」

 今にも抜刀せんばかりの勢いで拳を上げて吠え猛る和泉守を長谷部が横目で睨み付け、堀川が目線で謝罪に代えた。

「連中がこっちへ来る前に攻め込む手だってある筈だ、俺達は戦力じゃ劣っていない!」

「……確かに、君の言うことも一理ある。おそらく、待つだけではなく向こうへ攻め込むことは不可能じゃない。だが、結局は消耗戦になるだけだ。君達の腕は十分に分かっている。分かっているが、数で押されてはどうしようもない。……無駄死にすると分かっていて命令を下せる程、私は強くないんだ」

「……くそっ」

 畳に拳を打ち付け、それきり和泉守は黙り込んだ。おずおずと立ち上がった堀川が、彼の腕を取った。

「さ、兼さん、行こう」

「……」

 二人は静かに執務室を出た。去り際、堀川が「僕がしっかりしないと」と呟くのを、審神者は胸が引き裂かれる思いで聞いた。

 

 最後は山姥切国広だった。山伏国広も一緒に訪ねてきたものの、一通り話し終わると気を利かせて先に退室したのだった。

 山姥切は審神者がこの本丸で初めて手にした刀だった。近侍でこそなかったが、審神者は彼とは特別に多くのものを共有してきたという意識を持っていた。

 一度も審神者と合うことのなかった碧い瞳は今、真っ直ぐにその黒い瞳へ向けられていた。

「怖くはないのか」

 忌憚のないその言葉は、視線の碧と同じく審神者へ真っ直ぐに突き立った。

「私が怖がっていたら、示しがつかない」

「……」

 指先が少し汚れた白布を弄り、ぴたと止まる。

「……俺は、あんたのそういうところが嫌いだった」

「手厳しいね」

 山姥切の言葉に、審神者は何処か嬉しそうに笑うだけだった。失われつつある日常が、或いはまだその形を留めていることに浸れたからかもしれなかった。

「君ともっと話をしておけば良かったな」

「あんたには長谷部が居る」

「それでも、だよ。私は君のことをとても気に入っていたからね。君自身を」

 懐かしむようなその視線から目を逸らし、山姥切は俯いた。

「……俺は、多分あんたに喚ばれて、良かった」

 聞こえるか聞こえないかの声でそう言い、彼はさっと姿を消した。返事をするより速く、白布が翻っていた。

「……ああいうの、狡いと思わないかい」

 審神者もまた、俯いていた。

 

 ささやかな鳥の声と共に、昇る朝日の光が夜明けを知らせた。太陽がすっかり姿を見せ、のんびりと雲が漂い始めても、本丸は静寂に包まれていた。

 食事を用意する音も、畑で作業をする音も、馬の世話をする音も、庭を駆け回って遊ぶ声も、たゆまぬ鍛錬の音も、何一つ聞こえなかった。白い光が人気(ひとけ)のない本丸に射していた。

 執務室に審神者と長谷部、二人だけの影があった。向き合って、静かに茶を飲んでいる。

 空になったカップを置き、審神者は、

「皆、確かに刀解した」

 と言った。

「お疲れ様でした、主」

 長谷部は茶を注ぎながら言った。泣き笑いのような、あの奇妙な表情をしていることは、顔を見ずとも声で察せられた。――強くない、と零した言葉が、厭に焼き付いて残っていた。

「……二人きりになってしまったな」

 放たれた言葉はぽつんと部屋に落ちて、その波紋もすぐに消え去った。長谷部は無性に胸を掻き毟りたくなり、この持て余すような感情を何と表すかも知らないことに思い至ると頭を殴られたような気分だった。

 死ななければ安いと思っていた。たとえ死んだとしても、後顧の憂いは主命を果たせないことだけで、主の為とあらば命すら惜しくないと思っていた。それなのに今こうして遠からぬ死を待っていると、喉を劈くばかりに叫び出したくなる程の焦燥に襲われた。

 長谷部はもっと話がしたかった。知らないことを沢山、本当に沢山残したままで死ぬのは情けなく、悔しかった。気持ちは急いているのに、何を口にすれば良いのか分からない。こういう時、どのような言葉が相応しいのかすら分からなかった。

 沈黙を破ったのは審神者だった。

「長谷部君は、怖くはないかい」

 声は震えていた。もう、刀剣男士を率いる主で在ることを止めた証だった。

「俺は……まだ、状況を理解し尽くしていないので、怖いとは、感じません。ですが……知らないままで死ぬのは、厭だと感じます」

「もう守秘義務など無いも同然だから、君へ何もかも話すことは不可能じゃない。……だが、怯えるのは、私一人で十分だろう、ね」

「……っ、一人より、二人の方がきっと怖くはないですよ、主」

 審神者は乾いた笑いを零した。両手が胸元でもがき、苦しげに宙を掻いた。

「此処で――こんな、孤立した空間でただ死を待つのが怖くない筈がない。犬死になどさせられないと思って皆を刀解したが、独り取り残されるのが恐ろしくて、どうしても君だけは手に掛けられなかった。遡行軍か、検非違使か、どちらにかは知らないが、殺されるだけだと分かっているのに」

「主、俺は主をお慕いこそすれ、決して恨んだりはしませんよ。俺は――俺は、政府を、主をいとも容易く切り捨てた政府の連中だけを、殺してやりたい程憎んでいる」

「仕方がなかったんだよ」

 審神者は諦念に濡れた顔を歪めて言った。

「此処を切り捨てなければ政府が、果ては国が滅亡の危機に晒されるかもしれない。歴史がまだ修正されておらず、これからもされることがないと分かっている以上、綻びた箇所は見捨てるのが最も効率的で正しい手段だ。政府は過去も、そして未来も存続しなければならないのだから」

「……ですが……それでも、俺は……」

「誰も悪くない。ただ私の運が悪かっただけだ。咎があるとすれば、唯一、私の不運にだけだよ。こんなこと、本当に起こるなんて誰も思っていなかった」

 マニュアルの、強く開かれて癖の付いたページには、無感情なゴシック体文字が並んでいた。――歴史修正主義者に本丸の座標を特定された場合(ケース)。

 冊子を机に戻し、端末を抽斗の中に仕舞って、審神者は庭を見た。遠く菫色に霞む空の端は、僅かに濁った色をしているような気がした。

「どうせ此処に守るべき情報など何もない。きっと敵もその程度のことは理解しているだろう。蟻の巣を這う一匹を潰したところで女王は安全圏に構えているし、我々の戦いはそうでなくてはならない。……対応が機械的で徹底的なのは、こんなことが幾度となく繰り返されてきたことの証左に他ならない」

 長谷部はハッとした。政府が自分達を切る理由こそあれ、助ける理由など初めから何処にもなかったのだ。

 本丸はもう、どの時空にも繋がらない。当然、政府へも。全てのネットワークから遮断され、何処とも知れぬ座標上の空間に孤絶しているだけの場所となった。ただ一つの例外は、遡行軍が――どうやったのかは知らないが、此処の座標を突き止めた彼等が――邪魔者である審神者と刀剣男士を葬るべく力尽くで抉じ開けた侵入経路(ホール)だった。

 執務室と私室を隔てる襖に背を預け、審神者は天井を見上げた。白い喉が露わになる。

「後悔ばかりの人生だった」

「主……」

「今でも、君を刀解すべきだと叱咤する自分と、独りになりたくないと嘆く自分とがせめぎ合っている。最期まで、主らしいことは何一つしてやれそうにない。……それに何より、一番大きな後悔は……君に……」

 それはシステムのダウンと同じく唐突にやって来て、瀑布のように長谷部の頬を叩いた。

 切っ先から赤い滴が垂れる音だけが響き、轟音は一瞬で過ぎ去っていたことに漸く気付いた。顔もシャツも血塗れで、足元には血潮がじわじわと広がっている。

 審神者は両腕を広げて倒れていた。左肩から右脇腹へ袈裟懸けに薙ぎ振るわれた大太刀は審神者の左腕をほとんど断ち切って、今はほんの少しの皮と肉だけで繋がっている。とうに事切れていたが、長谷部には傷一つなかった。

 真正面に転がる遡行軍の大太刀の死骸を、長谷部は微塵になるまで切り刻んだ。切って、切って、切って、色の付いた肉片だけが残って漸く、彼は審神者の目を閉じなければ、と思った。

 隠しもしない瘴気と共に、何処か遠くから鬨の声が響き渡った。長谷部は審神者の瞼に手を置いたまま、弔う暇も与えないつもりか、とぼんやり考えていた。

 どのみち主を失ったこの空間は明日にも消滅する。埋葬したところで、それも全て歴史からは消え去ってしまうのだ。

 そうとは分かっていたが、長谷部は審神者の亡骸を抱え、ゆっくりと立ち上がった。血溜まりを避けて部屋を出、墓標となるものを探し始めた。

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