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四周年

 就任四周年ともなれば、皆手慣れたものだった。祝いの建前もそこそこに、やがて宴は呑めや喰えやの大騒ぎと化し、広間を歩く者が散乱する酒瓶に転ばされる光景もそろそろ見飽きてしまってきた頃だった。
「主」
 顔色のほぼ変わらない長谷部が審神者へと耳打ちした。
「何奴も此奴も些か羽目を外しすぎではないでしょうか」
「うん? まあ良いんじゃないか、一年に一度のことだ」
 審神者は鷹揚にそう言うが、長谷部はつい続く言葉を漏らしてしまった。
「年末年始の時もそう仰っていましたよ」
「良く覚えているな」
 非難がましい長谷部の言葉を一笑に付す審神者の頰は赤い。いつの間にかこの本丸も大所帯になっていて、一献も全ての男士から受けていれば相当な酒量になる。流石に途中からは舐める程度に抑えていたが、それでも審神者を酔わせるには十分すぎる量だった。
 長谷部は広間の中をさっと見渡した。既に銘々が好き勝手やるだけの空間と成り果てていたが、それでも思い出したかのように猪口を片手に審神者の元を訪れては、二言三言交わして去っていく者があった。審神者は――酔いも手伝ってか――穏やかに微笑みながら彼等の相手をしていて、それを横目で見る度長谷部は胸の辺りが軋むのを感じ取っていた。
「主、そろそろ御身体に障ります」
 言うと審神者は上目に口の端を吊り上げて、
「もっと素直に言えないのか」
とだけ答えて酒を煽った。長谷部は顔を赤く染めて俯き、
「そろそろ御部屋へ戻りませんか」
と言い直した。
「上出来だ」
 君にしては、と付け加えながら審神者は立ち上がり、近くで談笑していた粟田口の面々に声を掛けた。
「私はそろそろ退がるよ。楽しんで」
 重なり合う返事は上手く聞き取れなかったが、皆がこの宴を心から楽しんでいることは十二分に察せられた。それで満足だとでも言うように、審神者は手をひらひらと振って広間を後にした。

「君は素直な方が可愛いと思うが」
 腰を下ろすなり審神者が言って、長谷部は茶の用意のため手にしていた急須を取り落としそうになった。
「俺は主に嘘は吐きません」
「それは知っているよ。正直かどうかではなく、素直かどうかだ」
 審神者がケトルの電源を入れると、直に水の沸く音が静寂を掻き乱し始める。茶葉を入れた急須と湯呑を前に、二人は暫し沈黙を守った。
 素直な、己の欲に忠実な感情というのであれば、長谷部はちょうど一年前にそれを暴いて見せていた。ただただ醜い、凡そ近侍としては相応しくないそれを。微かに震える手を強く握って御そうとしているところを、審神者は無言で見つめていた。
 ピッ、と電子音が鳴る。湯が沸いた合図だった。
「お淹れします」
 この場の空気から逃れたい一心で長谷部はケトルに飛びつき、審神者は尚も無言でそれを黙認した。どうせそれも長くは持たない。夏よりも少し前、幼い新緑を思わせる萌黄色が注がれた後、案の定長谷部は寄る辺を失って俯いた。
 一種の嗜虐心が首を擡(もた)げるのを認めながら、審神者は仕方ないという風を装って口を開いた。
「一年前はああも自分の欲求に素直だったじゃないか」
「あれは……主には、とんだ無礼を」
 長谷部は口籠った。――触れて欲しいと、自分だけだというその証が欲しいだなどと浅ましくも願ってしまったこと。審神者が同じことを望むのは主たるものの道理だとして、だが長谷部はただの臣下だった。正常な時間の中では。
「君はそう言うが、私はこれでも年に一度のこの日を心待ちにしているんだがね……君がその胸の裡を僅かばかり明かして見せてくれる、ただ一日を」
 頬杖を突く審神者の指が湯呑をついとなぞり、湯気は二人の間の空気を暖めて解(ほど)いた。長谷部はふいに波濤のような孤独に胸を刺され、澄んだ藤色の瞳にはあまりの痛みに涙が滲んだ。
「俺は……俺はただ……」
「うん」
「主の為に、いえ、主が、主が……」
「……」
 何度も言い直そうとし、結局長谷部は言えなかった。いつだって自分に嵌めた枷の所為で幸せを諦め、不幸に耽溺し続けている己の主に対して「幸せになってほしい」となど、臣下の身でしかない長谷部には。
 その思いを見透かしたかのように、審神者は静かに言った。
「君には幸せで在ってほしい。今日一日だけでも」
「ですが、俺は……」
「長谷部君」
 有無を言わせぬ昏い光が長谷部をじっと見据えていた。これも主が望まれた御厚意なのだと、長谷部は観念して口を開いた。
「主、今年は考えてきたんです」
「うん」
「俺の望みは、主のことを忘れたくないというものです。……ですから、主の、その……」
 窄(すぼ)んでいく言葉に、審神者は催促もせずただ続きを待っていた。言わなくては、と長谷部は思う。一年前のような醜態を恐れたからこそ、予め心を決めてきたのだ。
「主」
「うん」
「し、写真を、頂けませんか」
「写真?」
 呆気に取られた様子の審神者を見て、長谷部はああまたやってしまった、と酷い後悔に襲われた。――どうしていつも、臣下として許される範囲を超えてしまうのだろう。突拍子もない願いを口にして、主を困惑させてしまう。俺はただ、主であるこの方を、共に過ごした事実を忘れたくないだけなのに。
 だが切なるその願いすら、そもそもは忠実なる近侍である筈の長谷部にとってはその役目の範疇を超えている。長谷部は潰れそうなほどに重い沈黙に身を侵されながら、それではどうすれば良いのだろうかと泣きたくなった。
 ややあって、審神者は噤んだままだった口を微かに開き、
「何の?」
とだけ尋ねた。
「ええと……」
「何の写真が欲しいんだ」
「……主、です」
 半ば捨て鉢になった長谷部がそう言うと、審神者は静かに溜息を吐いて天井を仰いだ。
「そんなもの、何に」
「何に、という訳では……」
「なるほど」
 長谷部から審神者の表情は窺えなかった。
「……なるほど」
 繰り返し、審神者はまた溜息を吐いた。

「ほら」
 卓上に差し出されたのは、掌より二回りほども小さい紙片だった。長谷部は審神者の顔と紙片とを何度か交互に見遣ってから、漸く「失礼します」と断って恐る恐るの様子でそれに手を伸ばした。硬質で厚みのある、さらりとした紙だった。
 裏返すと、薄青のグラデーションを背景にして写る審神者がいた。此方を向いている筈なのに決して交わることのない視線と感情を全く滲ませない口元に、長谷部は心臓が絞られるような心地がした。
「政府に提出した残りがあった」
 変なところでアナログだよな、と審神者は笑う。長谷部には分からなかった。
「ところで、それを何に使うんだい。人の営みの中に在る物に依り憑いて生まれた存在である以上、君が形ある物と思念に執着するのは理解できるが、あの世へ持って行ける訳でもないだろう」
 仏頂面のまま揶揄するような口調は、からかい半分なのかいつもの尋問なのか区別が付かなかった。長谷部は火葬を必要としない。長谷部には六文銭も必要ない。そもそも長谷部に彼岸は無い――
 彼の主は常にそう語り、同時にそれを認めなかった。
「俺は」
 答える声は微かに震えていたが、審神者は意にも介さずつまらなさそうに聞いていた。
「俺は、彼岸を見ることは止めました。貴方の刀と成った俺は、たとえ主が俺を疎んじて遠ざけたとしても、一日でも、一秒でも長く主の御傍に居たいと思っているからです」
 だから、と続けようとする長谷部を片手を上げて制し、審神者は「もういい」と言った。
「もう分かった。君がこれで幸せなら、私から言うことはない」
 例年とは異なりあっさりと引いた審神者の様子に拍子抜けしつつ、長谷部は言い忘れていた礼を言った。
「ありがとうございます、主。こうして未来を見ることを、望むことを俺に許してくださったのは主です」
「我儘を言うことも許しているのに、君はなかなか素直になってくれないな」
「も、申し上げています……今日だって、このように」
 長谷部は俯き、手の中の写真をそっと握るようにした。主が、主の御姿がこの中にあるのだと思うと、無意識に唇を引き結んでいることに気が付いた。
「ああ……君が欲しいと言ったからだ」
 そうして、と審神者は思う。――そうして形だけに執着するようになって、自分の存在そのものを必要としなくなれば何よりだ。所詮は付喪神の身、二つの物に憑くことなど不可能だろう。もし写真を選べば長谷部はへし切を失い、そもそもの前提である長谷部という存在すら喪われてしまう。長谷部が忘れたくないと願うのであれば、彼はその思い出を諦める他ないのだ。
「長谷部君」
 顔を上げ、長谷部は其処に写真の中と同じ――深い淵のような――視線を一瞬だけ認め、言葉を失った。
「長谷部君?」
「あ、すみません、主」
「それ、写真だけどね。他の皆には見せないようにしてくれないか。写りも悪いし……」
「はい、勿論です! これは俺だけのものです。持ち歩きはしても、他の連中には絶対に見せません」
「あ、そう……」
 前のめりになって熱弁する長谷部から若干身を引きつつ、審神者は「ところで」と話を変えた。
「この後はどうしたい」
「……」
 空になった湯呑をちらと見て、長谷部は蚊の鳴くような声で
「もう少し、此処で茶を飲んでいても良いですか」
と言った。
「構わないよ」
 手を伸ばし、審神者は長谷部の顔に落ちかかった前髪を少しだけ掬った。
「もう四年とは早いものだ。私こそ、積もる話もある」
「……ありがとうございます、主。俺は果報者です」
「やはり素直な君は一段と可愛らしいな」
「……」
 羞恥に何も言えなくなった長谷部は、伏せた視線をそっと手の中へと巡らせた。昏い、何もかもを諦めた目をした審神者が其処にいる。自分以外を、或いは自分自身をすらも信じてなどいないような目。
 本当の願いはまだ言えない、と長谷部は胸の内に独り言ちた。来年、それとももっと先、審神者が「忘れないでほしい」と言えるようになる日が来るまで――きっとその心に長谷部の言葉は届かないのだと思った。
「愛しているよ」
「……はい、主」
 今日を迎えられて良かった、と二人のどちらもが考えていた。二人が未来を見据えるために、写真は思いがけない光明だった。
 審神者が掬った煤色は、指先から絹のようにさらさらと落ちていった。くすぐったそうに目を細める長谷部を見て、審神者は口角を小さく持ち上げるだけの微笑みを見せた。
 寝室の襖は固く閉ざされており、今夜は決して開くことはない。

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